辻井伸行のヴァン・クライバーン・コンクール・ライヴ
スリップケース 中のジャケデザイン
◎ショパン １２の練習曲 作品１０〜第１〜６曲 Ａ ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第２９番「ハンマークラヴィーア」 Ｂ リスト パガニーニによる大練習曲〜第３曲「ラ・カンパネッラ」Ａ ジョン・マスト 即興曲とフーガ Ｂ 辻井伸行（ピアノ） <2009.5.23：Ａ，2009.5.31：Ｂ> 仏HARMONOA MUNDI (Production USA) HMU 907505 (スリップケースは KHM 997505) これは，今年の５〜６月に行われた第１３回ヴァン・クライバーン国際ピア ノコンクールでのライヴ録音で，演奏しているのはチャン・ハオチェン（張昊 辰）とともにゴールドメダルを獲得した辻井伸行です。 このコンクールでの優勝によって，辻井伸行は一夜にして日本で最も有名な ピアニストとなり，Ａｖｅｘから発売されていたデビューＣＤが破格のベスト セラーとなったほか，国内での年内のリサイタルのチケットは全て売り切れて いるなど，ほとんど社会現象といえるほどの反響を引き起こしていることは周 知のとおりです。 このコンクールの上位入賞者のライヴ録音は，毎回，仏ハルモニアムンディ のＵＳＡプロダクションからＣＤがリリースされており，今回も，ゴールドメ ダルの辻井伸行とチャン・ハオチェン（張昊辰），シルバーメダルのソン・ヨ ルム（孫熱音）の３人のＣＤリリースが予定されているのですが，国内の辻井 人気もあってか，辻井伸行のＣＤが先行輸入発売されたようです。 収録されている演奏のうち，ベートーヴェンとジョン・マストはセミファイ ナルの演奏で，ショパンとリストは予選での演奏です。このＣＤは国内では日 本語併記の紙のスリップケースを被せて販売されています。 さっそく聴いてみると，最初に収録されているのショパンの練習曲ですが， 当日は作品１０の全１２曲を演奏していたのに，このＣＤには前半６曲しか収 録されていないのが残念です。演奏の方は，落ち着きと安定感があり，やや硬 質の音色には独自の美しさがあって，やや平穏で平板な感はなくもありません が，安心して楽しむことのできる演奏でした。 次のハンマークラヴィーア・ソナタは，オーソドックスな解釈ながら，大変 に克明でバランスの良い演奏を行っており，響きやタッチのキレも良く，明朗 で喜びにあふれる演奏表現は，聴いていて心洗われる思いがしますし，演奏会 場の聴衆も同様の印象を抱いたのではないでしょうか。 次のラ・カンパネッラは，克明で粒立ちの良い演奏を行っており，特に素早 いパッセージでの切れ味の良いタッチは痛快ですし，フォルテでの力感にも不 足はなく，まずはこの作品の申し分のない演奏といえるのではないかと思いま す。演奏終了後は大歓声が起きていました。 最後のマストの即興曲とフーガは，このコンクールのために作曲された３人 作曲家の新作のうちの１つで，演奏日の２週間前に３曲の楽譜を渡され，１曲 を選んで演奏することになっているのですが，辻井伸行が演奏したマストの作 品は，３曲中で最も難易度の高いものだったそうです。 この作品は静かに始まりますが，存在感のある響きとともに，上手く流れを つくり出していますし，即興風に交錯する様々な曲趣を軽快かつリズミカルに 弾きこなしており，後半の高速フーガも，停滞することなく克明に弾き進めら れており，作品の面白さを存分に味わわせてくれる秀逸な演奏でした。 ちなみに，辻井伸行はこの演奏で，新曲演奏の最優秀賞に相当する「ビヴァ リー・テイラー・スミス賞」も受賞していました。 こうして聴いてみると，コンクールのライヴ録音とはいえ，辻井伸行の独自 のピュアネスをもった演奏の味わいと，切れ味の良いテクニックが存分に発揮 されており，確かに迫力不足だとか，響きのニュアンスに乏しいとかいった面 があるのは事実としても，そのような不満を感じさせない演奏の魅力があり， これならファイナルに進めるだろうと思いました。 なお，ファイナルの演奏がこのＣＤには収録されていないので，優勝云々の 判断はできませんが，実力的にも十分可能だろうとはいえると思います。 もちろん，演奏家としてこれで十分というわけではなく，さらなる表現の多 彩さ，ニュアンスの妙，深みや味わい，スケール感といったものを求めたいの ですが，すでに多忙な演奏スケジュールが組まれているようであり，今後とも 切磋琢磨する機会を保ち続けてほしいなと，他人事ながら思ってしまいました。 録音については，反応の良い音で演奏の姿を克明に捉えた優秀録音であり， 臨場感とともに演奏を楽しむことができましたが，おそらく辻井伸行自身によ ると思われる呼吸音が，かなり大きく聴こえることがあるのが，気にならない でもありませんでした。 そんなわけで，これはヴァン・クライバーン・コンクールという大舞台で辻 井伸行が持てる実力を存分に発揮した演奏を堪能できる充実の１枚として，話 題性を抜きにしても，十分に推薦しうる１枚だと思います。
2009.8.16
