アーノンクール指揮のマタイ受難曲
◎Ｊ・Ｓ・バッハ マタイ受難曲 アーノンクール指揮，ウィーン・コンツェツトゥス・ムジクス， アルノルト・シェーンベルク合唱団，ウィーン少年合唱団， クリストフ・プレガルディエン（福音史家）， マティアス・ゲルネ（イエス）， クリスティーネ・シェーファー（ソプラノ１，第１の下女，ピラトの妻）， ドロテア・レッシュマン（ソプラノ２）， ベルナルダ・フィンク（アルト１）， エリーザベト・フォン・マグヌス（アルト２，第２の下女，第１の証人）， ミヒャエル・シャーデ（テノール１）， マルクス・シェーファー（テノール２，第２の証人）， ディートリヒ・ヘンシェル（バス１，ユダ，ペテロ，第１の祭司，ピラト）， オリヴァー・ヴィトマー（バス２）， ヤン・ライプニッツ（第２の祭司） 独TELDEC 8573-81036-2 アーノンクール３度目のマタイ受難曲の録音が発売されました。先月上旬ご ろから輸入盤店に並んでいたようですが，やはりマタイは復活祭（今年は４月 １５日）より前に聴きたい気がするのも事実なので，これはタイミングのよい リリースではないでしょうか。 これは２０００年５月にウィーンで録音されたのですが，ときに過激と思え るほど先鋭な演奏を聴かせてきたアーノンクールも７０歳を迎え，ロマン派の 音楽にまで活躍の場を広げ続けている中で，どのような演奏を聴かせてくれる のか興味津々で聴きました。 それで実際に聴いてみたところ，この演奏は果敢に表現を切り開こうとする 先鋭さとも，受難のドラマを雄弁に描き出そうとする劇的さとも異なっていて， 生々しいリアリティのある非常に鮮明な演奏であり，演奏者が聴き手に向かっ てパッションや共感を訴えかけるのではなく，聴き手の側はそこで起こってい る受難の出来事がリアルに再現されているのを目の当たりにしているといった 趣があって，音だけでこれだけ迫真のドラマを描き出せることは驚異的ですら あります。 オケや合唱のアンサンブルは大変に見事で，幅広い表現力を駆使しながらも 安易に泣き笑いの感情を表出するようなことはなく，むしろ大変注意深くそれ を回避しているような印象すらあります。そしてその淡々と奏されるフレージ ングは，表現のうわべにあるものは一切捨て去って，控えめながらも核心乃至 はエッセンスだけをリアルに表出しており，どこか空虚な悲しさを感じてしま うほどのピュアで美しい響きと相まって，受難の痛みが切々と伝わってきます。 独唱陣もこの演奏のコンセプトに合致した，沈着にシャープで的確なところ を聴かせており，福音史家のプレガルディエンは引き締まった声で言葉そのも のに語らせることで強く印象付けるようであり，イエスのゲルネも深さや崇高 さよりも真実の言葉を語るゆるぎなき存在としてのイエスを聴かせており，他 の独唱陣も総じて持ち前の美声をやや控えめに活かしたリアルな役どころを聴 かせています。そんな中でユダやペテロなどを受け持っているバスのヘンシェ ルだけは，まろやかな声色で俗物性を感じさせる表現を聴かせていたのですが， これはこれで演奏全体のコンセプトの中に収まっているようにも思えました。 とにかく私自身，聴いていてこんなに痛々しい思いのするマタイというのは 初めての経験です。この痛々しい思いというのは，演奏それ自体が表出する痛 々しさではなく，むしろ非感傷的に描き出されている受難のドラマの出来事そ れ自体への感情移入にほかなりません。これは喩えて言うと，何ら脚色を加え ずに虐殺の場面を鮮明に映しだしている映像を目にしたときの痛々しい思いに 近いものがあるかもしれません。 それと，この演奏では，全体の表現を控えめに抑制することで強い表出力を 獲得していることに加え，演奏全体にひんやりとした透明な美しさがあり，フ レージングも独自の解釈を聴かせていてもそれと意識させない高度なセンスを 備えていて，アーノンクールはもちろんのこと，この演奏に関わった１人ひと りの非常に高い技量と意識にはひたすら感心するほかありません。 これは現代の知性とイマジネーションが生み出しうる最高のマタイの１つと して，ぜひお聴きになることをお薦めしたい名演です。この演奏がメンゲルベ ルク，リヒター，クレンペラー，あるいはマウエルスベルガーなどの過去の演 奏よりも優れているかという議論は私としては意味のないことのように思えま す。真に優れた演奏はいずれも個人のパーソナリティだけでなく時代背景をも 背負っており，それは個々人の思い入れはあっても優劣の話ではないと思いま す。 また，このＣＤセットのＣＤ３はエクストラＣＤになっていて，パソコンで 再生すると全曲の手書きのスコアとＭＰ３の音声を聴くことができます。
2001.4.1
